本文へスキップ

下級審医療判例real estate

札幌地判平14.6.14
                     主    文
 1 被告は,原告Aに対し,1億0802万2750円及びこれに対する平成3年4月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 2 被告は,原告Bに対し,300万円及びこれに対する平成3年4月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 3 被告は,原告Cに対し,200万円及びこれに対する平成3年4月4日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
 4 原告らのその余の請求をいずれも棄却する。
 5 訴訟費用はこれを5分し,その3を被告の負担とし,その余を原告らの負担とする。
 6 この判決の1ないし3項は仮に執行することができる。
 7 被告において,原告Aに対して6000万円,原告Bに対して180万
円,原告Cに対して120万円の担保を供するときは,その原告について,
前項の仮執行を免れることができる。

                     事実及び理由
(略)
第3 争点に対する判断
 1 争点(1)(第2手術を遅延させた過失の有無)について
  (1) 原告らは,原告Aが平成3年3月29日から腹痛を訴えていること,同日の腹部レントゲン写真においてニボー像が出現していること及び同月30日から同年4月1日までの原告Aの症状等から,被告病院の医師において,原告Aに絞扼性イレウスが発症したことを疑い,適時に適切な手術を施行すべきであったにもかかわらず,これを怠り,手術を同月4日まで遅延させた過失がある旨主張するので,この点について検討する。
  (2) まず,イレウスの診断及び治療について検討するに,前記前提となる事実に加え,後掲各証拠によれば,以下の事実が認められる。
   ア イレウスの分類
    イレウスは,器質的な病変が原因で腸管内腔の閉塞又は狭窄が生じ,腸管内容の通過が障害される機械的イレウスと,腸管腔内外に器質的な病変がないにもかかわらず,腸運動の麻痺又は痙攣が生じ,腸管内容の通過が障害される機能的イレウスとに大別される。さらに,機械的イレウスは,腸管内腔の機械的閉塞のみで腸間膜の血行障害を伴わない単純性イレウスと,腸管内腔の機械的閉塞とともに腸間膜の血行障害を伴う絞扼性イレウスとに分類されるが,イレウスの症例のうち60パーセント以上が単純性イレウスとされている(甲2,乙11,13)。
   イ 絞扼性イレウスの鑑別診断
    絞扼性イレウスは,放置すると急速に腸管の壊死,腹膜炎を招く重篤なイレウスであるため,絞扼性イレウスの疑いがある場合には,緊急手術の絶対的適用となる。このため,イレウスの診断においては,単純性イレウスか絞扼性イレウスかを鑑別することが極めて重要である。
    腹部レントゲン写真において腸管の膨満像,ニボー像が認められればイレウスと診断されるから,イレウスか否かの診断は比較的容易であるが,単純性イレウスか絞扼性イレウスかの鑑別は,臨床症状,画像診断(腹部レントゲン写真,CT写真,超音波等),生化学検査の結果等を総合して行うものの,いずれも決定的なものではなく,その判断は容易ではない。絞扼性イレウスに特徴的な臨床所見としては,激しい悪心,初期の激しい嘔吐,持続性の激しい腹痛,著明な圧痛,筋性防御,腹壁緊張,腸管硬直による有痛性の腫瘤(Wahl症状),腸蠕動不穏はみられず腸雑音が著明でないなどの腹部所見,発熱,頻脈及びショック等が挙げられる。また,絞扼性イレウスの場合,腹部レントゲン写真上無ガス像を呈することもあるが,一般的に腹部レントゲン写真により絞扼性イレウスと単純性イレウスとを鑑別することは困難である。さらに,絞扼性イレウスに特徴的な検査所見としては,1万を超える白血球数の
増加,LDH及びCPKの増多等が挙げられる(以上につき,甲2,乙11ないし14,16,証人J)。
   ウ 単純性イレウスと保存的治療の限界
    単純性イレウスには,開腹手術を要しない症例も多く,治療の基本となるのは,胃管ないしイレウス管による吸引等の消化管の減圧,中心静脈栄養等を始めとした輸液等による水分,電解質及び栄養の補給,抗生物質,腸蠕動亢進剤の投与,高圧酸素療法等の保存的治療である(甲2,乙12ないし14,16)。保存的治療のみにより軽快する症例は,単純性イレウスの60パーセント以上に上るという調査結果も存在する(甲2,乙16)。
    そして,保存的治療を行う場合でも,保存的治療によっても症状が改善しないときに,いつ手術に踏み切るかという保存的治療の限界の見極めが重要であり(乙14),手術に踏み切るべき時機については意見が分かれるところであって(甲2),従来の文献上には,3ないし4日という比較的短期間で手術に踏み切るべきであるとする見解が多かったが,中心静脈栄養等による栄養管理の進歩により,この期間が一般に延長される傾向にあり(乙14),現在では,1週間程度保存的治療を行っても症状の改善がみられない場合には,保存的治療の限界と判断して手術に踏み切るのがよいとする見解が多い(甲2,乙13,14,証人J,証人K)。ただし,この期間は,個々の症例ごとに判断されるべきである(甲2。なお,原告らの依頼により本件を検討したL医師は,保存的治療の限界について3日程度であるという見解を示している(甲23)が,前掲各証拠に照らすと,上記見解を直ちに採用することはできない。)。

  (3) 上記第3の1(2)イ認定の知見によれば,腹痛を伴い,腹部レントゲン写真においてニボー像が認められれば,イレウスと診断すべきものと認められるところ,前記前提となる事実(2)オ記載のとおり,原告Aには,平成3年3月29日,下腹部痛及び嘔吐感が出現し,排ガスが認められず,腹部レントゲン検査において小腸内ガス像及びニボー像が確認されているのであるから,同日の時点で,被告病院の医師において,原告Aにイレウスが発症したと診断することは可能であったというべきであるが,イレウスであっても,絞扼性イレウスでない限り,その相当数が保存的治療のみで軽快し,開腹手術を要しないというのであるから,担当医師においては,絞扼性イレウスを疑うべき特段の所見が認められない限り,患者への危険と負担の大きい手術を直ちに行うのではなく,患者への危険と負担の小さい保存的治療を行いつつ,その効果の有無や程度を観察するという方法を選択することには,相応の合理性が認められるというべきである。
    そこで,原告Aにおいて,絞扼性イレウスを疑うべき特段の所見が認められたか否かが問題となるが,前記第3の1(2)イ認定の知見によれば,腹部レントゲン写真に小腸内ガス像及びニボー像が認められただけでは,絞扼性イレウスを疑うべきであると認めるのは困難である。また,前記前提となる事実(2)オ記載のとおり,原告Aにおいて,同日から同年4月3日までの間,下腹部痛,腹満感,嘔吐及び嘔気等の臨床症状を訴えることがあったものの,下腹部痛は自制内のものであって鎮痛剤によって抑制することが可能であり,腹満感,嘔吐及び嘔気についてもさほど激しいものではなかったのであるから,上記第3の1(2)イ認定の知見に照らせば,これらの臨床症状が絞扼性イレウスを疑うべき症状であるということはできないし,また,同日までに施行された腹部レントゲン検査,各種造影検査の結果も,上記第3の1(2)イ認定の知見に照らせば,絞扼性イレウスを疑うべきものであるということはできない。そして,他に,被告病院の医師において,同日までの間に,原告Aに絞扼性イレウスが発症したことを疑うべきであったと認めるに足りる証拠はない。したがって,遅くとも同日までの間に,原告Aに絞扼性イレウスが発症したことを疑い,手術を施行すべきであったとの原告らの主張は,理由がない。
    さらに,上記第3の1(2)ウ認定の知見に照らせば,絞扼性イレウスを疑うことができない場合,イレウス治療の基本となるのは保存的治療であるが,1週間程度保存的治療を行っても症状の改善がみられないときには,保存的治療の限界と判断して手術に踏み切るべきであるというべきところ,被告病院の医師は,原告Aにイレウスが発症したと診断することが可能であった同年3月29日の6日後である同年4月4日に第2手術を施行しようとしたのであるから,保存的治療の限界という観点からみても,被告病院の医師において,手術を遅延させた過失があると認めることはできない。
  (4) 以上によれば,争点(1)についての原告らの主張は,理由がない。
 2 争点(2)(第2手術までの全身状態管理を怠った過失の有無)について
  (1) 原告らは,被告病院の医師において,水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し,血清中の電解質レベルを毎日測定し,尿比重検査及び尿量検査等を行うなどして,原告Aの全身状態を管理すべき注意義務があったにもかかわらず,これを怠り,第2手術までに原告Aの全身状態を悪化させた過失がある旨主張する。
  (2) そこで,平成3年4月3日までに被告病院の医師が行った原告Aの全身管理についてみるに,前記前提となる事実(2)オに加え,証拠(甲16,乙4,証人J)によれば,次の事実が認められる。
    第1手術後,同年3月28日までの原告Aの経過は順調であったが,翌29日になって,原告Aが下腹部痛,嘔吐感を訴えたため,被告病院の医師は,腹部レントゲン検査を行い,小腸内ガス像及びニボー像を確認した。この段階で,被告病院の医師は,食べ過ぎに起因するイレウスを疑い,同月30日に絶食とし,輸液を開始し,腹部レントゲン検査を行った。同年4月1日,J医師が主治医となり,ガストログラフィン追跡造影検査を行い,イレウスと診断し,飲食を禁止した。同月2日,J医師は,イレウスの原因が胆汁の漏れにあるのではないかと疑い,Tチューブ造影検査を行ったが,胆汁の漏れが認められなかったので,第1手術の影響がイレウスの原因ではないかと考え,同日,高カロリー輸液による中心静脈栄養を開始するとともに,経鼻的にイレウスチューブを挿入して腸液,ガス等を吸引する保存的治療を開始した。同月3日,J医師は,ガストログラフィンによる造影検査を行い,小腸が完全に閉塞していることを確認し,閉塞部位を小腸の手術瘢痕部と特定した。この間,被告病院の医師は,同年3月15日,同月18日,同月23日,同月28日及び同年4月3日に血液生化学検査を行い,原告Aの血清中の電解質レベル等を測定したが,それ以外の日には,血液生化学検査を行わず,尿比重検査及び尿量の検査も行わなかった。

  (3) ところで,イレウスの患者は,消化管内外への水分の貯留ないし漏出,嘔吐,発熱により,脱水,電解質不均衡,血液濃縮,高窒素血症,乏尿等が生じやすいこと(甲2,36),体液の分布,体液及び消化液の電解質組成並びに水分の出納を知ることが輸液管理の基本であるとされていること(甲21)に鑑みれば,被告病院の医師において,原告Aの水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し,血清中の電解質レベルを毎日測定し,尿比重検査及び尿量検査等を行うことが,望ましい全身管理の方法であるというべきである。
    しかしながら,@被告病院の医師において,腹部レントゲン検査の結果等から,原告Aにイレウスが発症したことを疑い,その後は毎日のように腹部レントゲン検査ないし造影検査等を行い,原告Aを絶飲食とし,高カロリー輸液による中心静脈栄養を開始して水分,電解質及び栄養の補給を行うとともに,イレウスチューブによる吸引を行って消化管を減圧するなど,保存的治療として必要な措置を講じていること,A高カロリー輸液による中心静脈栄養は,これのみでも食事をするのと同程度の栄養維持が可能なものと解されること(乙17,証人K),B前記第3の1(3)で認定したとおり,平成3年4月3日まで,原告Aに絞扼性イレウスが発症したことを疑うべき所見はなかったこと,C前記前提となる事実(2)オ記載のとおり,原告Aは,同日まで,自力歩行によりトイレで排尿していたこと,DJ医師は,この点について,「血液検査は,絞扼性イレウスか否かを判断する1つの参考指標にすぎないから,絞扼性イレウスの所見がなければ,毎日のように血液検査を行う必要まではないと考える。原告Aの場合には,歩行してトイレで用を足しており,イレウスの患者についてはなるべく歩いて腸を動かすことが重要であるから,膀胱にチューブを入れて尿量を厳密に測ることまではしなかった。」という見解を示しており(証人J),一般的見解としてこれを否定すべき証拠もないことに照らせば,被告病院の医師において,同日までの間,水分出納表等の体液バランスのチャートを連続的に記録し,血清中の電解質レベルを毎日測定し,尿比重検査及び尿量検査等を行うべき法的義務があったとまで認めることは困難である。
  (4) 以上によれば,争点(2)についての原告らの主張は,理由がない。
 3 争点(3)(本件麻酔施行上の過失の有無)について
  (1) 原告らは,本件麻酔施行時,原告Aの全身状態が悪化し,脱水状態に加えてショック状態ないしプレショック状態を呈していたにもかかわらず,麻酔医において,原告Aの全身状態の把握を怠り,全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失あるいは麻酔剤を急速に注入した過失により,原告Aを心臓停止に陥らせ,その結果,大脳皮質障害に陥らせた旨主張するので,この点について検討する。

  (2) 前記前提となる事実に加え,後掲各証拠によれば,以下の事実が認められる。
   ア(ア) イレウスによる脱水について
     イレウスの患者においては,時間の経過とともに細胞外液に含まれない液体が腸管内に貯留し,腸管内容が口側に逆流して嘔吐となって現れるため,脱水,電解質不均衡,血液濃縮,高窒素血症,乏尿等が生じやすく,中心静脈圧,心拍出量,循環血液量等が低下し,著しいときはショックに陥る危険がある(甲2,36)。
     脱水状態を十分に改善しないまま,イレウスの患者に麻酔を施行した場合,患者がショック状態に陥る危険があるため,麻酔医は,イレウスの手術に当たり,術前に患者の全身状態をよく把握し,患者に脱水があれば,輸液等により水分,電解質,酸塩基平衡の補正を行い,患者の循環血液量を正常に戻した上で,麻酔を施行すべきである(甲2,3,21,35,38)。
     患者が脱水状態にあるか否かを評価する上で,病歴からは健康時との体重の変化量,絶飲食の時間,嘔吐や下痢等の体液異常喪失等が,身体所見からは血圧,心拍数等のバイタルサインのほか,皮膚粘膜の状態,倦怠感,尿の色,尿比重等が,検査所見からはヘモグロビンの上昇,ヘマトクリットの上昇,電解質ナトリウムの変化,血清尿素窒素の上昇,尿素窒素クレアチニン比の上昇等がそれぞれ重要な基準となる(甲35,38)。
    (イ) 硬膜外麻酔について
     硬膜外麻酔には,@任意の分節の麻酔が得られること,A持続麻酔によって手術中及び手術後も長時間にわたって除痛することが可能であること,B脊椎麻酔に比べ,呼吸系や循環系に与える影響が小さく,合併症の危険が小さいこと,C全身麻酔と併用することにより応用範囲が拡大することなどの利点がある一方,@手技が難しく,硬膜外腔を確認する手技に熟達している必要があること,A麻酔が広範囲になると血圧が低下し,全身麻酔を併用した場合,使用吸入麻酔剤によっては著明に血圧の低下をみることがあることなどの欠点がある(甲3,22,34,乙15)。
     硬膜外麻酔が血圧の低下を招くのは,交感神経の遮断により血管の拡張及び心筋の被刺激性の低下をもたらすためであり,血圧の低下の程度は,循環血液量が不足している症例において著明である(甲3,22,33,34)。
     このため,硬膜外麻酔は,@ショック状態の患者,例えば消化管穿孔やイレウスの末期の患者,A高度の脱水,貧血等で循環血液量が不足していると思われる患者に対しては,禁忌であるとされており,循環血液量が不足している患者については,術前に十分な輸液を行い,循環血液量を補正することが必要である(甲22,34)。
     麻酔剤の中でも,キシロカインには,麻酔の作用の発現が早く,麻酔力が強く,拡がりやすいという性質がある(甲3,22)。
    (ウ) 全身麻酔を併用する場合の注意点について
     全身麻酔剤イソゾール(バルビタール剤)には,心筋抑制作用によって心拍出量を減少させ,血管運動中枢を抑制し,末梢血管を拡張させる作用があるため,血圧の低下をもたらす。このため,循環血液量が減少している患者に対しては,少量にとどめるべきであり,ショック状態の患者に対しては,禁忌であるとされている(甲3,33)。
     また,硬膜外麻酔により腹部や下肢の血管が拡張し,代償的に上肢の血管が収縮を起こしているようなときに,全身麻酔の併用によって全身の血管の拡張作用をもつ麻酔剤を投与すると,この代償作用をも消失させ,血圧を大幅に下降させ,心拍出量も低下させるため,注意が必要であるとされている(甲25)。
    (エ) 麻酔剤の量及び注入速度について
     硬膜外麻酔の施行に当たっては,まず,麻酔剤2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,これによる異常が認められないことを確認した上で,必要な量の麻酔剤を本格的に注入する(甲3,乙15)。
     硬膜外麻酔において2パーセントキシロカインを投与した場合,投与後2ないし3分で温覚が消失し,4ないし5分後に痛覚鈍麻が起こり,さらに2ないし3分で無感覚となり,15ないし20分で麻酔域が概ね固定する(甲3)。
     脱水,イレウス等により循環血液量が減少している患者は,循環抑制を生じやすいため,麻酔剤を急速に注入すると,心停止の危険がある(甲21)。
     硬膜外麻酔のみを施行する場合には,十分量の麻酔剤を投与するが,硬膜外麻酔に全身麻酔を併用する場合には,硬膜外麻酔のみを施行する場合の半分の量の麻酔剤の投与で足りる。全身麻酔を併用する場合に,十分量の硬膜外麻酔剤を投与すると,硬膜外麻酔による交感神経の遮断に全身麻酔による交感神経の遮断が加わり,血圧が著しく低下する(甲34)。
   イ 本件麻酔を施行した被告病院のG医師は,本件麻酔について概ね次のような見解を示す(乙22,証人G)。
    (ア) 硬膜外麻酔には血圧を下げる作用があり,イソゾールには循環抑制作用がある。
    (イ) 第2手術の前に,J医師らから,当日施行した造影検査の結果通過障害があったこと,それまでの治療経過並びに一般血液検査及び生化学検査の結果等について説明を受けた。手術室に入室した原告Aを見たところ,腹痛を訴えており,第1手術の時に比べて体重が減少している印象を受けたが,全身の皮膚,口唇等の状態は,著明な脱水症状と判断されるものではなかった。また,術前に既に強度の脱水症状その他の異常所見があれば,担当の外科医から申し送りがあるはずであるが,格別のものはなかった。自ら看護記録を点検したりはしなかった。
    (ウ) 平成3年4月3日の血液検査の結果は,同年3月15日の血液検査の結果と比べて赤血球,ヘモグロビン,ヘマトクリットの数値がそれぞれ上昇しており,循環血液量が減少したことがその一因とも思われるが,特に異常な数値ではない。同年4月3日の白血球数(9800)は,腹部に異常のある患者の数値として特に異常な数値であるとはいえない。また,同月4日の白血球数(1万9900)は,心停止後に採血した結果であると考えられるが,心臓マッサージ等により循環動態に著明な影響があった後であるために高い数値になったものと考えられる。
    (エ) 原告Aの全身状態,体重の減少及びJ医師らの申し送り事項等を考慮し,第1手術よりも2ミリリットル減量した2パーセントキシロカイン10ミリリットルをG医師が自ら注入した。
      麻酔の範囲は,麻酔施行後5ないし10分後に判明するところ,当初は硬膜外麻酔の単独施行を考えていたが,硬膜外麻酔施行後に腹部の筋弛緩が不十分であると考えられたため,硬膜外麻酔だけでは十分でないと考え,全身麻酔を併用することにした。そして,原告Aの全身状態,体重の減少及びJ医師らの申し送り事項等を考慮し,第1手術よりも4ミリリットル減量したイソゾール10ミリリットルがG医師の指示の下に看護婦により注入された。この際,看護婦の注入方法に問題があったという記憶はない。
    (オ) 結果から逆推すると,原告Aは,同日の段階では,既にプレショック状態ないし強度の脱水状態で,麻酔剤の量を控え目にしたとはいえこれにも持ちこたえられない程度の重篤な状態であったとも考えられる。
   ウ 原告Aの主治医であった被告病院のJ医師は,本件麻酔施行時の原告Aの状態について概ね次のような見解を示す(証人J)。
     ショック状態であれば,レントゲン検査等はできないので,原告Aはそこまで重篤な症状ではなかったと考えられる。また,イレウスの場合,必ず脱水を伴うが,第2手術の時点で,原告Aの脱水は軽度であったと判断している。原告Aが歩行してトイレに行っていること,車椅子で検査に行っていることや血圧,脈拍,体温及び呼吸状態等のバイタルサインから,全身状態が第2手術の時点で特に悪化しているとは考えなかった。
   エ i病院で第3手術を担当したK医師は,同病院を受診した際の原告Aの状態等について概ね次のような見解を示す(証人K)。
    (ア) i病院を受診した際,原告Aは既にショック状態で,血圧は80台であり,脈拍は190台と頻脈を呈していたが,脱水もその因子の1つと考えられる。初診時,K医師は,原告Aのイレウスの状態について,これは大変なことだなと理解した。
    (イ) 平成3年4月5日に開腹した第3手術の際の腸管の壊死,穿孔の状態は,穿孔が始まって1両日程度経過した状態であると考えられる。
    (ウ) 原告Aの心停止の原因としては,脱水症状が非常に強かったこと,敗血症になっていたこと,心房細動があったことなどの因子が重なったものと考えられる。
   オ 鑑定人であるH医師は,本件麻酔について概ね次のような見解を示す(証人H,鑑定の結果)。
    (ア) 硬膜外麻酔には,末梢血管を拡張させ,血圧を低下させる作用があるため,ショック状態の患者については禁忌であり,高度の脱水の症例については脱水を補正しない限り禁忌である。
    (イ) イレウスの患者の場合,急激に脱水が進行することも考えられる。急激に脱水が進行した場合,外見上,皮膚や口唇の状態から脱水の程度を推測することは難しい。
    (ウ) 平成3年4月3日の血液検査におけるヘモグロビン,ヘマトクリット,尿素窒素クレアチニン比の上昇から,原告Aは,ある程度の脱水状態にあったと考えられ,これらの数値の推移からみると,脱水の度合いがかなり上昇した可能性もある。また,クロール値の低下から,かなりの嘔吐がみられたと考えられる。同月4日の第2手術の前に,できれば原告Aの血液検査をすべきであった。
    (エ) 原告Aには心房細動があり,血栓を作りやすい状態にあるが,麻酔管理上それほどのリスクは伴わないと考えられる。心停止により白血球数が増加することもあるが,仮に,原告Aの手術時の白血球数が1万9900と高値を示していたとしても,その原因が手術部位であるイレウスにあると考えれば,原因を元から絶つために手術に踏み切ることに特に問題はない。
    (オ) 絞扼性イレウスという状況であっても,痛みの遮断や全身麻酔剤の軽減という利点を考えると,硬膜外麻酔が不適当とは考えない。イレウスの患者については,フルストマック状態にあることを念頭に置き,誤えん性肺炎を予防するため,意識下に手術を行う麻酔方法がしばしば選択され,この点からも硬膜外麻酔を選択することに問題はない。
    (カ) 硬膜外麻酔を施行するに当たっては,脱水状態が強いと血圧が急激に低下する危険性があるため,十分な輸液を行うべきであるところ,原告Aの場合,硬膜外麻酔のためのチューブを挿入するまでの約30分間にグルコース200ミリリットル(中心静脈栄養),ラクテック250ミリリットル(末梢)が点滴投与されており,また,原告Aは,手術室入室時の血圧が最高108,最低73であり,硬膜外麻酔の施行に必要な体位をとっているから,少なくともショック状態ではなく,原告Aに対して硬膜外麻酔を施行したことは妥当である。また,硬膜外麻酔に全身麻酔を併用したことについても,バランス麻酔として適切である。
    (キ) 結果的に心停止が起こったことから逆推すると,末梢血管を拡張させて血圧を下げる作用のあるキシロカインと心臓の収縮力を弱めて血圧を下げる作用のあるイソゾールの効果がある1点で合わさって相乗的に作用し,予想を超えた血圧下降反応を示したのかもしれず,また,原告Aには心房細動があったため,血栓を生じ易かった可能性もある。いずれにしても,原告Aが心停止に陥ったのは,通常の一般的概念を逸脱したものであったと考えられる。
    (ク) 本件麻酔において,キシロカインを投与してからイソゾールを投与するまでの時間が余りないが,硬膜外麻酔の効果は,5分ないし10分程度後に現れることが多いので,少し待つのが普通であると思う。イソゾールには,血圧を低下させる作用があるので,全身状態が悪い場合には慎重に投与しなければならない。
  (3)ア 本件麻酔施行時,原告Aが脱水状態にあったか否かについて
    (ア) 原告らは,本件麻酔施行時,原告Aが脱水状態にあった旨主張するので,まずこの点について検討する。
    (イ) 血液検査の結果について
      前記第3の3(2)ア(ア)及び第3の3(2)オによれば,患者が脱水状態にあるか否かを評価する上で,血液検査の所見からは,ヘモグロビンの上昇,ヘマトクリットの上昇,電解質ナトリウムの変化,血清尿素窒素の上昇及び尿素窒素クレアチニン比の上昇等が重要な基準となることが認められる。
      そこで,原告Aの血液検査の結果について検討するに,前記前提となる事実(2)オ(ケ)記載のとおり,本件麻酔施行前日である平成3年4月3日,原告Aのヘモグロビンは,それまでの検査数値の中で最も高い17g/dlの数値を記録しているが,これは正常値のほぼ上限の値である。次に,同日,原告Aのヘマトクリットは,正常値の範囲内にとどまっているものの,それまでの検査数値の中で最も高い47.7パーセントの数値を記録している。また,同日,原告Aの電解質ナトリウムは,それ以前の検査数値の中で最も低い135mEq/lの数値を記録しているが,これは正常値の下限の値である。そして,同日,原告Aの血清尿素窒素は,それ以前の検査数値の中で最も高い37mg/dlの数値を記録しているが,これは正常値の上限の2倍近い異常値である。さらに,同日,原告Aの尿素窒素クレアチニン比は,それ以前の検査数値の中で最も高い33.636の数値を記録しているが,これは正常値の上限の3倍を超える異常値である。
      また,本件麻酔施行後,原告Aが心停止した後に採血した同月4日の血液検査の結果について検討するに,前記前提となる事実(3)ウ記載のとおり,原告Aの電解質ナトリウムは,131mEq/lと前日よりもさらに低い数値を示し,原告Aの血清尿素窒素は,58.9mg/dlと異常値を示した前日に比しても急激に上昇しているし,原告Aの尿素窒素クレアチニン比は,34.647と前日よりもさらに高い数値を示している。
      さらに,前記第3の3(2)オによれば,電解質クロールの低下は,嘔吐があることを示していると認められるところ,前記前提となる事実(2)オ(ケ)及び(3)ウ記載のとおり,同月3日及び同月4日の原告Aの電解質クロールは,それぞれ90mEq/l,88mEq/lと正常値を大きく下回る数値を記録していて,原告Aにかなりの嘔吐があったことを裏付けるものである。
      以上のような血液検査の結果に加えて,H医師が,前記第3の3(2)オ記載のとおり,同月3日の血液検査におけるヘモグロビン,ヘマトクリット及び尿素窒素クレアチニン比の上昇から,原告Aがある程度の脱水状態にあったと考えられ,これらの数値の推移からみると,脱水の度合いがかなり上昇した可能性もある旨の見解を示していることに照らせば,本件麻酔施行時,原告Aの脱水状態は相当進行していたと推認することができる。
    (ウ) イレウスの悪化とそれに伴う脱水状態の変化について
      前記第3の3(2)ア(ア)によれば,イレウスの患者においては,時間の経過とともに細胞外液に含まれない液体が腸管内に貯留し,嘔吐も現れるため,脱水に陥りやすいことが,また,前記第3の1(2)イによれば,持続性の激しい腹痛及び白血球数の増加等は,絞扼性イレウスに特徴的な所見であることが認められる。
      そして,@前記前提となる事実(2)オ(ク)及び(3)イ(ウ)記載のとおり,原告Aは,本件麻酔施行当日である平成3年4月4日午前4時ころから,それまでの自制の範囲内のものとは異なる自制不可能な腹痛を訴え始め,この腹痛は,鎮痛剤を投与されたにもかかわらず手術室に入室するまで続いていたこと,A前記前提となる事実(2)オ(ケ)記載のとおり,同月3日の血液検査において,原告Aの白血球数が,それ以前の検査数値の中でも最も高い9800の数値を記録しているところ,これは正常値の上限値であること,B前記前提となる事実(4)イ記載のとおり,本件麻酔の施行から1日余りしか経過していない同月5日の第3手術の際,原告Aの小腸の一部が既に圧迫壊死し,穿孔及び汎発性腹膜炎が生じていたところ,前記第3の3(2)エ記載のとおり,執刀したK医師は,この状態について,穿孔が始まって1両日程度経過した状態であると考えられる旨の見解を示していることに照らせば,本件麻酔施行時,原告Aのイレウスは悪化し,既に絞扼性イレウスに至っていた可能性も否定し難く,仮に絞扼性イレウスに至っていなかったとしても,原告Aの腹部の炎症が相当程度亢進していたものと推認することができる。
      そうすると,本件麻酔施行時,原告Aにおいて,イレウスの悪化及び腹部の炎症の亢進に伴い,脱水の度合いも一段と悪化していたものと推認することができ,この点は,上記(イ)の血液検査の結果からの推認と一致するということができる。
    (エ) 原告Aの脱水状態の程度とその認識可能性について
      前記前提となる事実(2)オ(キ)記載のとおり,原告Aは,平成3年4月3日午後10時50分ころ,250ミリリットルの濃縮尿を排泄している。また,前記前提となる事実(4)ア記載のとおり,被告病院のI医師は,i病院の外科医に宛てた同月5日付けの依頼状において,原告Aの状態について,「現在脱水強く」と記載しているところ,甲11号証(本件麻酔施行後i病院に搬送されるまでの間の被告病院における看護記録)によれば,原告Aは同月4日午後7時35分ころに1回嘔吐したことが認められるほかは,本件麻酔施行後,i病院に搬送されるまでの間,イレウスの進行を除けば,その脱水状態を悪化させるような事情も特に認められない(原告Aがi病院に到着したのが同月5日午後零時50分ころであり,前記甲11号証の看護記録の記載が同日午前10時05分で終わっていることからみて,I医師の上記依頼状は同日午前10時ころまでに書かれたものと推認される。)。さらに,前記第3の3(2)エ記載のとおり,K医師は,原告Aがi病院を受診した際に既にショック状態であり,脱水もその因子の1つと考えられる旨の見解を示している。
      以上の事実と上記(イ)及び(ウ)で認定した原告Aの血液検査結果及び脱水状態の変化に照らすと,原告Aは,本件麻酔施行時には,前日の血液検査に係る採血が行われた時点と比べて格段に脱水の程度が進行していたと推認するのが相当であり,したがって,被告病院の医師が第2手術を施行するに先立って原告Aの血液生化学検査を行っていれば,原告Aが既に相当な程度の脱水状態にあることを認識することができたと推認することができる。
   イ 原告Aの全身状態の把握を怠った過失の有無について
    (ア) 原告らは,本件麻酔施行時,原告Aの全身状態が悪化していたにもかかわらず,被告病院の麻酔医において,原告Aの全身状態の把握を怠った過失がある旨主張するので,この点について検討する。
    (イ) 前記第3の3(2)ア(ア),(イ)及びオによれば,脱水状態を十分に改善しないまま,イレウスの患者に麻酔を施行した場合,患者がショック状態に陥る危険があるため,麻酔医は,イレウスの手術に当たり,術前に患者の全身状態をよく把握し,患者に脱水があれば,これを補正した上で,麻酔を施行すべきであること,特に,硬膜外麻酔は,血圧を低下させる作用を有し,その程度は脱水等により循環血液量が不足している症例において著明であるから,高度の脱水等により循環血液量が不足している症例に対しては,脱水を補正しない限り禁忌であることが認められる。
      これに加えて,@イレウスの患者の場合,急激に脱水が進行することも考えられる(証人H)ところ,上記ア(イ)及びア(エ)のとおり,第2手術の前日である平成3年4月3日に施行された血液検査の結果は,原告Aが脱水状態にあり,それが進行していることを疑わせるものであり,同日夜には濃縮尿を排泄していたこと,A前記前提となる事実(2)オ記載のとおり,原告Aは,同日までは腹痛を訴えても自制の範囲内であったのに,同月4日には一転して自制不可能な腹痛を訴え始めるなど,その容態に顕著な変化がみられたことも併せ考えれば,被告病院の医師において,本件麻酔を施行するに先立ち,原告Aが,硬膜外麻酔を施行する上で禁忌であるとされる高度の脱水状態に陥っていないかどうか等,原告Aの脱水状態の程度を確認するために,原告Aの血液生化学検査を行うほか,原告Aの全身状態を改めて慎重に診察し,とりわけ原告Aがどの程度の脱水状態に陥っているかを十分に検査し診察すべき注意義務があったというべきである。しかるに,被告病院の医師は,これを怠り,本件麻酔を施行するに先立って原告Aの血液生化学検査等をして改めて診察をしなかったため,原告Aにおいて,前日に行われた血液生化学検査のときと比べて格段に脱水の程度が進行して相当な程度の脱水状態に陥っていたことを看過した過失があるというべきである。なお,本件麻酔を担当したG医師は,原告Aの同日までの症状を詳細に把握していなかったが,この点は,麻酔担当医としての過失あるいは原告Aの主治医であるJ医師がG医師に情報を伝達することを怠った過失によるものというべきである。
      この点について,H医師は,前記第3の3(2)オ記載のとおり,第2手術の前に,できれば原告Aの血液検査をすべきであった旨の見解を示しており,この見解は,被告病院の医師において,本件麻酔を施行するに先立ち,原告Aの血液生化学検査を行うべき注意義務があったとの上記認定を裏付けるものと考えられる。
   ウ 本件麻酔の手技が不適切であったことについて
    (ア) 原告らは,被告病院の麻酔医において,全身状態が良好な場合におけるのと同様の硬膜外麻酔を施行した過失又は麻酔剤を急速に注入した過失がある旨主張するので,この点について検討する。
    (イ) 前記第3の3(2)ア(イ),(ウ),イ及びオによれば,@硬膜外麻酔は,血管を拡張させて心筋の被刺激性を低下させる作用を有するため,血圧の低下を招き,その程度は,脱水等により循環血液量が低下している症例において著明であるから,高度の脱水等により循環血液量が不足している症例に対しては,脱水を補正しない限り禁忌であること,A麻酔剤の中でも,キシロカインは,麻酔力が強く,拡がりやすいという性質を有すること,Bイソゾールは,心筋及び血管運動中枢を抑制し,末梢血管を拡張させる作用を有するため,血圧の低下を招き,その程度は,脱水等により循環血液量が減少している症例において著明であることが認められる。
      また,前記第3の3(2)ア(ウ),(エ),イ及びオによれば,@硬膜外麻酔を施行するに当たっては,最初に麻酔剤2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,これによる異常が認められないことを確認した上で,必要な量の麻酔剤を本格的に注入すべきであること,Aイソゾールには,血圧を低下させる作用があるため,循環血液量の減少している患者には少量にとどめるなど,全身状態が悪い患者に対しては慎重に投与しなければならないこと,B硬膜外麻酔と全身麻酔とを併用する場合には,硬膜外麻酔を施行した後,5ないし10分程度待ち,硬膜外麻酔の効果及び範囲を確認した上で,全身麻酔を施行すべきであること,C共に血圧を下げる作用を有する硬膜外麻酔とイソゾールとを併用した場合,血圧を大幅に下降させる可能性があることが認められる。
    (ウ) 以上の認定事実によれば,麻酔医において,相当な程度の脱水状態に陥っている患者に対してキシロカインを用いた硬膜外麻酔とイソゾールを用いた全身麻酔とを併用するに当たり,最初にキシロカイン2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,患者の状態に異常が認められないことを確認した上で,必要量のキシロカインを患者の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し,その後5ないし10分程度待ち,麻酔の効果及び範囲を確認し,患者の状態に異常が認められないことを確認した後に,必要量のイソゾールを患者の状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っているというべきである。
      ところが,手術室記録(乙3)には,本件麻酔の施行に当たり,午前11時45分に硬膜外チューブから2パーセントキシロカイン10ミリリットルを注入し,続いて,午前11時48分にイソゾール10ミリリットルを注入した旨の記載があるところ,H医師は,手術室記録の上記記載は,緩徐に行った麻酔剤の注入をまとめて記載した可能性があるので,必ずしも,上記各麻酔剤をそれぞれ一時に注入したとは限らない旨指摘するが(証人H),G医師の陳述書(乙22)及び証人Gの証言中には,上記手術室記録の記載とは異なる上記注意義務に従った方法で各麻酔剤を注入したことをうかがわせる部分がないことに照らすと,G医師は,午前11時45分に2パーセントキシロカイン10ミリリットルを短時間のうちに1度に注入し,そのわずか3分後である午前11時48分に,看護婦に指示してイソゾール10ミリリットルを短時間のうちに1度に注入したものと認めるのが相当である。
      そうすると,被告病院の医師において,上記アで認定したとおり相当な程度の脱水状態に陥っていた原告Aに対して本件麻酔を施行するに当たり,最初にキシロカイン2ないし3ミリリットルを試験量として注入し,その後3ないし4分待ち,原告Aの状態に異常が認められないことを確認した上で,必要量のキシロカインを原告Aの状態をみながら緩徐かつ慎重に注入し,その後5ないし10分程度待ち,麻酔の効果及び範囲を確認し,原告Aの状態に異常が認められないことを確認した後に,必要量のイソゾールを原告Aの状態をみながら緩徐かつ慎重に注入すべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを怠り,麻酔剤を急速に注入した過失があるというべきである。
      この点について,H医師は,前記第3の3(2)オ記載のとおり,本件麻酔において,キシロカインを投与してからイソゾールを投与するまでの時間が余りないが,少し待つのが普通である旨の見解を示しており,この見解は,被告病院の医師において麻酔剤を急速に注入した過失がある旨の上記認定に沿うものである。
   エ 被告病院の医師の過失について
     上記イ及びウによれば,被告病院の医師において,本件麻酔の施行前に原告Aの血液生化学検査等を行い,原告Aが相当な程度の脱水状態にあることを把握し,こうした原告Aの状態に応じた慎重な麻酔方法を採るべき注意義務を負っていたにもかかわらず,これを怠り,原告Aの血液生化学検査等を行わず,このため原告Aが相当な程度の脱水状態にあることを看過し,2パーセントキシロカイン10ミリリットルを急速に注入し,そのわずか3分後にイソゾール10ミリリットルを急速に注入した過失があるというべきである。証拠(乙18,証人H,鑑定の結果)中,以上の認定に反する部分は,その前提を異にするものであって,採用することができない。
   オ 因果関係について
     前記第3の3(2)ア(イ)ないし(エ)によれば,キシロカイン及びイソゾールは,共に血圧を下げる作用を有し,血圧の低下の程度は,脱水等により循環血液量が減少している患者において著明であること,硬膜外麻酔と全身麻酔を併用した場合に,その効果が相乗し,血圧を著しく低下させ,心拍出量を低下させる可能性があるため,注意が必要であること,脱水により循環血液量が減少している患者に対して麻酔剤を急速に注入すると,心停止の危険があるとされていることが認められる。
     したがって,一方で,原告Aが相当な程度の脱水状態にあることを看過し,共に脱水状態にある患者の血圧を著明に低下させる危険のある麻酔剤をいずれも急速に注入したという過失があり,他方で,前記前提となる事実(3)イ記載のとおりそのわずか約10分後に原告Aの血圧が測定不能になり,さらにそのわずか約9分後に原告Aの心停止が確認され,心停止による脳虚血を原因とする大脳皮質障害に至ったもので,脱水状態の患者に対して血圧を低下させる作用のある麻酔剤を急速に注入した場合に予想される典型的な転帰をたどったということができるのであるから,他に特段の事情の認められない限り,その過失と結果の発生との間には相当因果関係があると推認するのが相当である。そして,上記の推認を妨げるような特段の事情も認められない本件においては,被告病院の医師の過失により,原告Aに大脳皮質障害という結果が発生したものであり,その間には相当因果関係があると認めることができる。
     さらに,@前記第3の3(2)オのとおり,H医師も,心停止という結果から逆推すると,共に血圧を下げる作用のあるキシロカイン及びイソゾールの効果がある1点で合わされ,相乗的に予想を超えた血圧下降反応を示した可能性がある旨の見解を示していること,A前記前提となる事実(2)エ記載のとおり,原告Aは,硬膜外麻酔(2パーセントキシロカイン)と全身麻酔(イソゾール)の併用下に第1手術を受けたが,血圧の一時的低下こそみられたもののエフェドリンの投与により回復しており,大事に至ることはなかったことからすれば,上記麻酔剤に対する原告Aの特異体質等,他に心停止の原因があったとは考えにくいことも,被告病院の医師の過失と原告Aに生じた結果との間に相当因果関係がある旨の上記認定を裏付けるものである。
 4 争点(4)(損害)について
  (1) 原告Aの損害
   ア 入院雑費      448万8740円
     前記前提となる事実及び上記認定事実によれば,原告Aは,昭和17年9月29日生まれの男性であり,本件麻酔が施行された平成3年4月4日当時48歳であったが,被告病院の医師の過失により,本件麻酔の導入時に心停止をきたし,脳虚血による大脳皮質障害に陥り,同日から現在まで意識障害が持続しており,チューブによる栄養補給等の全身管理を要するいわゆる植物状態にあるところ,現在の医療技術においては,回復は困難である。そのため,原告Aは,意識障害に陥った同日から平均余命(平成3年簡易生命表によれば,30.30年である。)が尽きるまで,入院を継続するものと推認される(なお,原告Aの容態は,症状固定後10年近くが経過した現在まで安定した状態が続いており(弁論の全趣旨),生命の危険をうかがわせる事情は認められないし,現在の高い医療技術の下において,いわゆる植物状態の患者の生存可能期間が通常人に比して短いと認めるに足りる的確な証拠もないから,原告Aの推定余命を健常人よりも短いものと考えることは相当でない。)。もっとも,入院が30年もの長期間に及ぶものと予想されることに加えて,植物状態にある原告Aにとって,入院雑費の相当部分が生活費に含まれると考えられるところ,後記ウのとおり,後遺症逸失利益の算定に当たって生活費を控除しないこととの均衡を図る必要があることを考えると,純然たる入院雑費の額は,1日当たり800円を超えるものではないと考えるのが相当と判断する。そこで,遅延損害金の起算点となる不法行為時を基準時とし,ライプニッツ係数(30年の係数は15.3724)を用いて中間利息を控除して,原告Aが要する入院雑費の上記基準時における現価を算定すると,次の計算式のとおりとなる(ただし,円未満切り捨て。以下同じ。)。
    (計算式)800円×365日×15.3724=448万8740円
   イ 休業損害             0円
     前記前提となる事実によれば,原告Aは,平成3年4月4日,本件麻酔の導入時の心停止を原因として脳虚血による大脳皮質障害をきたし,これにより意識障害に陥り,意識障害が持続したままi病院において第3手術を受けたが,第3手術後も意識障害が回復せず,現在まで意識障害が持続しており,現在の医療技術においては,回復が困難である。こうした経過に照らすと,原告Aの症状は,同日に固定したと認めるのが相当である。そうすると,原告Aの症状は,本件不法行為の日に固定しているから,原告Aには,不法行為の日から症状固定日までの休業による減収を意味する休業損害は発生していないというべきである(症状固定後の減収については,一括して後記ウの後遺症逸失利益として評価すべきである。)。
   ウ 後遺症逸失利益  5768万3136円
     原告Aは,大脳皮質障害に基づく意識障害に陥ったが,これは後遺障害別等級の1級3号に該当し,労働能力を100パーセント喪失したものと認められるところ,上記後遺障害を負わなければ,48歳(不法行為時)から67歳までの19年間にわたって就労することが可能であり,上記就労期間中,平成3年賃金センサス産業計・企業規模計・小学・新中卒の男子労働者全年齢平均賃金の年収477万3000円を下らない年収を得ることができたものと推認することができる(なお,原告Aの学歴については,新中卒よりも高いことを認めるに足りる証拠はない。)。そこで,ライプニッツ係数(19年の係数は12.0853)を用いて中間利息を控除すると,原告Aの本件不法行為時における逸失利益の現価は,次の計算式により算出される5768万3136円と認められる(なお,原告Aは,今後も生命維持のための費用の支出を要することが明らかであるから,生活費を控除することは相当でない。)。
    (計算式)477万3000円×12.0853=5768万3136円
   エ 後遺症慰謝料   2400万円
     原告Aの年齢,意識障害に至る経緯,後遺症の程度並びに被告側の過失の態様及び程度等の諸般の事情を考慮すると,後遺症による原告Aの慰謝料は,2400万円と認めるのが相当である。
   オ 介護費      1385万0874円
     上記ア記載の原告Aの後遺症の程度に加え,弁論の全趣旨によれば,原告Aは,同原告が介護費を請求する平成6年3月31日以降も,植物状態という重篤な症状にあり,被告病院は,完全看護体制を採っているものの,重篤な患者には必ずしも十分ではないこともあって,原告Bが,入院中の原告Aに付き添い,同原告の身の回りの世話等を行っていることが認められるとともに,今後も,原告Aの平均余命(平成6年3月31日当時51歳であった原告Aの平均余命は,平成3年簡易生命表によれば27.63年である。)が尽きるまで,日常的に親族による付添介護が継続されるであろうことが推認できる。もっとも,原告Aが今後も入院を継続する蓋然性の高い被告病院では,完全看護体制を採っていて,親族において全日にわたって付添介護をする必要性があるとは考え難く,また,要する介護内容も,植物状態にない患者に比べると軽易なものと考えられるので,原告Aに要する平成6年3月31日以降の介護費は,1日当たり3000円と認めるのが相当である。そこで,ライプニッツ係数(30年の係数は15.3724,3年の係数は2.7232)を用いて中間利息を控除すると,原告Aが要する本件不法行為時における介護費用の現価は,次の計算式のとおりとなる。
    (計算式)3000円×365日×(15.3724−2.7232)=1385万0874円
   カ 弁護士費用     800万円
     本件事案の内容,訴訟の審理経過及び認容額等に照らすと,被告の不法行為と相当因果関係のある原告Aの弁護士費用は,800万円と認めるのが相当である。
  (2) 原告Bの固有の慰謝料   300万円
     原告Cの固有の慰謝料   200万円
    最愛の夫ないし父親が回復困難な意識障害に陥ってしまったことにより,原告B及び同Cは,原告Aの死亡に比肩すべき精神的苦痛を受けたものと認められるところ,原告B及び原告Cの年齢,原告Aの意識障害に至る経緯,その後遺症の程度並びに被告側の過失の態様及び程度のほか,さらに,肩書住所地に居住する原告Bにおいては,上記の精神的苦痛に加えて,将来にわたって日常的に原告Aを介護する精神的,肉体的負担も受けていることを考えると,原告B及び同Cの固有の慰謝料は,それぞれ300万円及び200万円と認めるのが相当である。
 5 結論
   以上によれば,原告A,同B及び同Cの不法行為(使用者責任)に基づく本訴請求は,それぞれ1億0802万2750円,300万円及び200万円並びにこれらに対する本件不法行為の日である平成3年4月4日からの遅延損害金の支払を求める限度において理由があるからこれを認容し,その余は理由がないからいずれも棄却することとし,訴訟費用については民事訴訟法61条,64条本文,65条1項本文を,仮執行及びその免脱宣言については同法259条1項,3項をそれぞれ適用して,主文のとおり判決する。

ナビゲーション