下級審医療判例real estate
千葉地判平14.6.3
主 文
1 被告は,原告Aに対し,9562万8932円,同B,同C及び同Dに対しそれぞれ3187万6310円並びにこれらに対する平成3年8月25日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告らのその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は,これを3分し,その2を原告らの負担,その余を被告の負担とする。
事実及び理由
(略)
第3 当裁判所の判断
1 争点(1)について
(1) 前記争いのない事実及び証拠(甲1,2の各一,二,3の一ないし九,8の一,8の二の・,・,8の三ないし六,8の四五の・,・,10,11,15の一ないし四六,16の一ないし二八,18の一ないし三,22の一ないし九,乙1,3,13の一ないし二〇,14,15の一ないし五,証人I,同J,同K,同L,同M,原告B本人)並びに弁論の全趣旨によれば次の事実を認めることができる。
ア 術前の経過
(ア) Fは,被告病院に通院していたが,昭和60年10月,糖尿病との診断を受け,以来,被告病院で治療を継続し,毎年,糖尿病に関する教育入院(毎年20日程度)を兼ねて人間ドックによる身体検査をしていた。
(イ) Fは,昭和60年10月21日,虚血性心疾患の疑いとの診断を受け,実施された心エコーの結果では異常がなかったが,トレッドミル運動負荷テストでは陽性との結果であった。その後,昭和62年5月14日に実施された同テストでは陰性であったが,平成元年5月27日に実施された同テストでは,再び陽性との結果が出ていた。
(ウ) Fは,平成2年6月22日,糖尿病の治療を兼ねて人間ドックによる身体検査をする目的で,被告病院に入院したが,同月29日,内視鏡の検査によって胸部中部食道に食道癌の疑いのある発赤が認められ,同年7月2日,病理組織検査の結果,食道の扁平上皮癌であると診断された。
(エ) 人間ドックの担当医であったH医師が,消化器内科のW医師に相談した結果,手術適応との判断がされ,I医師が手術を担当することとなった。
(オ) Fは,自宅が近いため,外来通院で術前検査をすることとなり,同月3日被告病院を一時退院し,同月14日,外来で胸部CT検査及び呼吸機能検査等を受け,同月16日,再度内視鏡検査を受けた後,再入院した。さらに,Fは,同月20日,再度呼吸機能検査を受け,同月14日及び20日の呼吸機能検査の検査は,次のとおりであった。
なお,トレッドミル運動負荷テストは実施されていない。
a 同月14日
スパイログラム検査 肺活量3・88リットル,パーセント肺活量108・1パーセント,1秒量3・00リットル,1秒率(G)77・52パーセント
フローボリューム曲線検査 V50 毎秒3・38リットル,V25毎秒0・97リットル,V50/V25 3・48
b 同月20日
スパイログラム検査 肺活量3・84リットル,パーセント肺活量107・0パーセント,1秒量3・08リットル,1秒率(G)79・59パーセント
フローボリューム曲線検査 V50 毎秒3・52リットル,V25毎秒1・14リットル,V50/V25 3・09
(カ) 同月18日の時点で,I医師は,Fの癌の浸潤の程度について,それまでの検査結果及び症例検討会議の結果から,粘膜下層への浸潤を疑い,食道亜全摘と縦隔の郭清術を実施することとした。呼吸機能検査の結果については,スパイログラムを中心に評価し,正常範囲内にあると判断し,糖尿病等の合併症があるが,手術には十分耐えられると判断していた。
イ 手術の実施
(ア) 同月23日午前9時43分,執刀医I医師,第一助手J医師,第2助手N医師,第3助手O医師,麻酔医専門医P医師,同担当医Q医師らによって,Fの手術が,次の手順で行われた。
まず,右開胸を行ったところ,右上葉が胸壁とほぼ全面に癒着しているのを認め,これをメスで剥離した。リンパ節105に,肉眼的に腫大を認め,リンパ節への癌の転移を疑って,105ないし109番のリンパ節の郭清を行い,胸部上部で食道を切断し閉胸した。次に,開腹し,胃管を作製し,1,3,7及び8番のリンパ節を郭清した。続いて,頚部操作に移り食道を引き出して,吻合した。
同日午後4時30分,手術は終了した。
(イ) Fは,同日午後5時22分,ICUに入室した。この時点では,呼吸補助のため気管内挿管され人工呼吸器が使用されていた。
ウ 術後の経過
平成2年7月23日午後7時30分から同月27日午前0時40分までの診療経過,処置経過,Fの同月24日午前0時から同月27日午後9時までの酸素分圧,二酸化炭素分圧及び酸素飽和度の推移は,以下に記載するほか,別紙診療経過一覧表記載のとおりであった。
(ア) 被告病院において,ICUには,2名の看護婦が常駐していたが,専属の医師はおらず,ICUに入室している患者の担当医が,麻酔科の医師らからアドバイスを受けながら,患者の術後管理にあたることになっていた。医師による回診の他,ICUに常駐していた2名の専属の看護婦が必要に応じて,ポケットベル等で担当医らを呼び出すという態勢となっていた。
Fの術後管理は,主に,主治医であるI医師と受持医であるJ医師によって行われ,同人らは,直接診察したり,看護婦の採ったデータを確認しながら,これを行っており,看護婦に対する指示は,ICU医師指示表に書き込むほか,口頭で行っていた。同年7月23日から同月26日までの間のICU医師指示表には,ドクターコール基準として,血圧が90oHg以下,尿量が3時間あたり75ミリリットル以下,または脈拍が1分間あたり120回以上と記載されていたが,血液ガス検査は看護婦の判断で適宜に行うと指示されていたのみで,酸素分圧についての具体的基準数値についての指示はなく,看護婦がFの状態に変化を認めた場合にドクターコールをすることとされていた。
(イ) 当時,被告病院においては,長期間の予防的な機械呼吸を行うことは,圧障害等の合併症を生じさせる危険があることから,呼吸器の使用をできるだけ短期間に限定するという方針が採られていた。
Fについても,同月24日午前8時25分,呼吸状態が呼吸器を使用しなくても問題のない状態となったと判断され,気管内の挿管を抜き,マスクによる酸素投与に切り替えられた。
同日午前9時,J医師がマスクに送る酸素量を毎分3リットルとした。
(ウ) 同日午後9時,看護婦が,酸素分圧が低下していることを医師に報告し,医師は酸素の量を毎分5リットルにするように指示した。
同日午後11時20分,看護婦は血液ガス値を医師に報告し,医師は鼻から酸素を送る方法である「経鼻」で酸素を送るように指示した。
同月25日午前6時35分,看護婦は,血液ガス値について「今ひとつ」と観察した。
I医師は,手術後2日から4日目位までは酸素分圧が多少低下することが多いところから,ここまでのFの経過については,特に大きな問題となるものはないと考えていた。
(エ) 同日午後3時,J医師がICUに来棟,Fを診察し,看護婦が同人の状態を報告した。体温上昇(38度)に対して解熱剤ヴェノピリンを投与した。
同日午後4時,I医師がICUに来棟,Fを診察し,看護婦が同人の状態を報告した。
同日午後8時,I医師,O医師がICUに来棟,Fを診察し,気管支ファイバーで痰の排出を行った。施行中にモニターで血圧が200oHg以上に上昇したがすぐにもとに戻った。
同日午後8時50分,看護婦が酸素分圧が50oHg台であることを医師に連絡し,医師は,マスクに投与する酸素の量を毎分6リットルに増やすよう指示した。
同日午後9時30分,J医師がICUに来棟,Fを診察し,看護婦が同人の状態を報告した。
同日午後11時20分,Fは,体温が38度2分となり,解熱剤ヴェノペリンが投与された。
J医師は,同日の診療録に「血液ガス分析はいまひとつ,酸素分圧50代まで下がる。発熱あり」などと記載した。
I医師は,人工呼吸器の適応を,酸素分圧が50oHg以下,二酸化炭素分圧が50oHg以上に上昇するなどし,それに伴って意識混濁がある場合と考えていたため,この時点で,人工呼吸器に切り替えることは考慮しなかった。
(オ) 同月26日午前0時30分,L看護婦が,「肺の吸気は良好であるが全体的に肺雑音あり」と観察した。
同日午前1時,Fにパルスオキシメーターが装着された。この装置は,酸素飽和度が94ないし90パーセントになるとアラームが鳴るように設定されていた。
同日午前1時15分,L看護婦は,酸素の量を増やしたにもかかわらず,酸素分圧が低下していることから「血ガス不良」と観察した。 同日午前1時50分,Fの心拍数が一過性に130ないし140となり,心房細動が認められた。I医師は,開胸手術後ありうる不整脈であり,呼吸不全に起因するものではないと判断していた。
同日午前6時30分,L看護婦が「肺の吸気は良好であるが,肺雑音がまだある」と観察した。
同日午前8時30分,I医師他数名がFを診察し,I医師が気管支ファイバーで痰を多量に吸引した。I医師は,同日午前7時の胸部レントゲン撮影の結果,左肺下部に陰影が認められたため,肺炎の疑いをもち,予防的に抗生剤をセフメタゾンから,より強力な抗生剤であるフルマリンに変更した。しかし,I医師は,この時点では,Fが呼吸不全の状態になっているとの判断はしていなかった。
同日午前11時,I医師はFの診察を行い,「肺への吸気良好全体的に軽度の肺雑音があるが,陽圧呼吸訓練も出来ている」と観察した。
(カ) 同日午後0時,K看護婦は,6リットルマスクをしていながらも酸素分圧が低いため,「いまいち」と観察した。
同日午後2時30分,Fは,看護婦に対し,痰が出せず苦しいと訴え,気管支ファイバーを希望するが,医師の指示により,自己排出は呼吸訓練のため必要なことであるとして呼吸訓練のためネプライザーを勧めて様子を見た。
このころ,原告Bは,Fに呼び出され,痰がつかえて苦しいから,原告Bの同級生の被告病院関係者に連絡して,医師を呼んで欲しいと訴えられたため,看護婦に医師を呼ぶよう要請したが,I医師は出張中であり,J医師は手術中であったため,すぐに対応してもらえなかった。
同日午後4時,K看護婦が「肺雑音が全体的にあり,痰の喀出いまいち」と観察した。
同日午後4時20分,I医師及びJ医師に代わって,R医師がFを診察し,気管支ファイバーで痰を吸引した。
同日午後4時50分,S看護婦が「痰がごろごろしている。肺の吸気はまあまあであるが,肺雑音が全体にある。元気がなく,呼吸訓練も積極的でない。」と観察した。
同日午後5時30分,I医師は,Fの肺の状態把握のために肺のレントゲン撮影を行った。その結果は,左肺下部に病変を意味する陰影が認められたが,その程度は非常に軽いと判断された。
(キ) 同日午後7時50分ころから,Fは,心拍数が120を超え,一時は160まで上昇し,呼吸が努力性となり体温も38度となった。顔面は蒼白となり,意識レヴェルも低下し,呼名反応も明確でなくなったため,S看護婦が医師を呼び,J医師が来棟し,午後8時20分,経口で挿管して機械呼吸を再開した。午後8時25分,経口を経鼻に変更して機械呼吸を継続した。このころから解熱剤ヴェノペリン,鎮静剤フェンタネストを3回,筋弛緩剤ミオブロックを2回投与した。
(ク) 同月27日午前0時40分 Fが覚醒したことから,S看護婦がFに対し,人工呼吸器を使用していることを説明した。S看護婦は「肺への吸気良好,肺雑音は軽度になる」と観察した。
その後,Fは,酸素分圧が70oHg台となり,さらに翌28日には100oHgとなるなど一時的に呼吸不全状態は改善したかに見えたが,その後も呼吸不全状態が持続した。
同年8月1日,同年7月26日の喀痰培養の結果,菌が陽性であったことから,Fに対し,肺炎との確定診断がされた。
同年8月10日ころ,Fは,呼吸不全状態の継続により腎不全を発症するに至り,同年9月5日ころその呼吸不全,腎不全を原因とする肝不全を発症した。そして,同月6日午前5時30分,挿管してある気管チューブから突然大量の出血をし,心停止状態となり,その時は心肺蘇生を行った結果回復したものの,同日午前6時30分再度心停止,同日午前6時56分,多臓器不全を原因とする出血による窒息によって死亡した。
証人Iは,同人は,同年7月26日午前8時30分に,肺炎を積極的に疑っていたわけではない,ICU観察表(乙3)の同日時の記載は,看護婦の判断で書かれているものであるとの証言をするが,同証言は,同記載が医師診察時の記載であること,看護婦が医師の指示がないのに抗生剤の変更をするとは通常考え難いこと及び証人K,同Lの各証言に照らし,採用することができず,他に,上記認定を覆すに足りる証拠はない。
なお,被告は,同月26日午後7時50分に測定された酸素分圧値27oHgは,同日午後5時30分の患者の様子や,同日午後6時の酸素飽和度に照らして正確ではないと主張するが,この酸素分圧測定直後,Fが,心拍数,体温が上昇し,顔面蒼白のショック状態になったことは当事者間に争いのないこと,この検査は,被告の行ったものであること及び測定の仕方に何らかの問題があったことを認めるに足りる証拠はないことに照らし,採用できない。
(2) 上記認定事実及び鑑定人Tの鑑定の結果(以下「T鑑定」という。)によれば,Fは,同月25日ころ肺炎を併発し,同日深夜から翌26日早朝にかけて,これが原因で呼吸不全状態となり,酸素供給が低下して,全身状態に影響を及ぼすに至ったことが認められる。
被告は,Fは同月25日には肺炎に感染していなかったと主張するが,上記認定のとおり,同年8月1日,同年7月26日の喀痰培養の結果,菌が陽性であったことから,Fに対し,肺炎との確定診断がされたこと,同月26日午前0時30分から肺雑音が観察されていたこと,同日午前7時の胸部レントゲン撮影の結果,左肺下部に陰影が認められたこと,I医師も同日午前8時30分に肺炎の疑いをもっていたこと及びT鑑定に照らし,採用できない。
(3) 上記認定のとおり,Fは,同月24日午後9時,酸素マスクに送る酸素量を1分あたり5リットルに増量した結果,酸素分圧が,96・0oHgに上昇したものの,翌25日午前6時に83・1oHg,同日午後3時に75・5oHg,同日午後8時50分に56・1oHgに低下したこと,この後,酸素量を毎分6リットルに増量しても,酸素分圧は,70oHgを上回るに至らなかったこと,同月25日午後3時,体温が38度に上昇し,これに対して解熱剤ヴェノピリンが投与されたが,同日午後11時20分には再び体温が38度2分に上昇したこと,翌26日午前0時30分,看護婦が肺雑音を観察したこと及び同日午前1時50分,心拍数が一過性に130ないし140となり,心房細動が認められたことが認められる。また,同日午前7時の胸部レントゲン撮影の結果,左肺下部に陰影が認められたこと,I医師も同日午前8時30分に肺炎の疑いをもったことについても,上記に認定したとおりである。
T鑑定によれば,Fには,虚血性心疾患があるところから,心臓自体に十分な酸素を供給し,かつ心機能に余分な負担をかけさせない必要があったから,酸素分圧を最低70oHgないし80oHgに保つのが,望ましく,同月25日午後3時,酸素分圧が96・0oHgから70oHg台に短時間で低下していることは,肺で異常事態が進行していること,今後短い時間内に酸素分圧が70oHgからさらに低下して,全身への酸素供給が急速に悪化して危機に瀕することを示すこと,さらに発熱があったことからすれば,呼吸器感染症の発症または悪化,重篤な肺炎の合併症が疑えることが認められる。
また,K看護婦は,酸素投与をしている場合,酸素分圧が70oHg台になったら医師に相談する必要があると考え,L看護婦は,酸素投与をしている場合,酸素分圧は80oHg以上は必要であると考えており,Fの酸素分圧の低下につき,適宜医師に報告していたこと及びI医師,J医師とも,Fの看護記録,検査結果等をチェックし,Fの状態については,十分認識していたことが認められる(証人K,同L,同I,同T)。
そうすると,被告病院の医師たちは,Fの酸素分圧が同月25日午後8時50分に酸素分圧が56・1oHgに低下し,酸素量を毎分6リットルに増量しても70oHgを上回るに至らないまま数時間を経過したこと,同月25日午後3時,体温が38度に上昇し,解熱剤を投与したのに,同日午後11時20分には再び体温が38度2分に上昇したこと,翌26日午前0時30分,肺雑音が観察され,同日午前1時50分,心拍数が一過性に130ないし140となり,心房細動が認められたことを認識したときには,遅くとも,重篤な肺炎の合併症を疑い,この状態は,Fの酸素供給が低下して身体に負担のかかるレベルであり,全身への酸素供給に不可逆的な変化が起こり始めていることを予測し,早急に病態を検索して,気管内挿管,人工呼吸を中心とした管理を開始し,さらに,それ以外の積極的な治療としてヘモグロビンと体液組成の厳重な管理,強心薬使用による酸素運搬の改善,高い体温の正常化あるいは軽度低体温の採用,エネルギー需要を上げないため,ないし下げるための鎮静と筋弛緩,腎機能の確保と腎臓の保護及び栄養管理などを加える必要があったと認めることができる。
特に,Fには,長期の喫煙習慣,糖尿病の罹患,虚血性心疾患,フローボリュームカーブ検査による肺機能異常及び左肺全面癒着等の危険因子が判明しており,術後,特に厳重な呼吸管理が必要であると認められる状態であった(T鑑定)のであるから,なおさらである。
(4) ところが,I医師は,前記認定のとおり,手術後2日から4日目位までは酸素分圧が多少低下することが多いことから,Fの経過については,特に大きな問題となるものはないと考えており,不整脈についても,開胸手術後ありうる不整脈であり,呼吸不全に起因するものではないと判断し,また,人工呼吸器の適応を,酸素分圧が50oHg以下,二酸化炭素分圧が50oHg以上に上昇するなどし,それに伴って意識混濁がある場合と考えていたため,この時点で,人工呼吸器に切り替えることは,全く考慮しなかった。同人は,同日午前8時30分にFが肺炎に罹患したとの疑いをもった後も気管内挿管,人工呼吸を中心とした管理等を開始しなかったのであるから,当時のFの状態について危険な状態であるとの認識はなかったものと推認することができる。なお,J医師は,酸素分圧が40oHgから50oHg台で人工呼吸器をつける場合が多いと考えていた(証人J)ものである。
これらの被告病院の医師たちの対応は,当時のFの全身状態及び呼吸状態について十分な注意を払わず,漫然と術後回復は順調であると軽信し,慎重に呼吸管理を行わずに適切な治療を怠った過失があるといわざるを得ない。
(5) この点について,被告は,人工呼吸の適応は,単純に酸素分圧のみで決定できるものではなく,しかも,人工呼吸器の使用による肺の損傷や,感染症を引き起こす危険性を意識し,術後の患者の状態全部を総合考慮したうえで,Fの経過は,術後2日ないし4日目の,最も呼吸状態の悪い時期の通常の経過をたどっており,再挿管の必要はないと判断して対処していたのであると主張する。
確かに,人工呼吸器の使用により,感染症を発症する危険性や,酸素分圧及び二酸化炭素分圧を正常値に近づけようとするあまり,陽圧によって正常な肺も破壊してしまう危険性が専門医により指摘されていること,Fは,手術の際に肺の癒着を剥離しているので,人工呼吸の陽圧などが肺を損傷し,組織の破壊・気胸の危険性が高いことが認められる(乙18,19及びT鑑定)ところである。そして,被告病院においても,看護婦がFの状態を詳しくチェックし,異常が発生したと認めたときは,ドクターコール等により医師の指示を受けて,対処していたことは,前記認定のとおりである。しかし,I医師らは,Fの既往症及びリンパ節106番の郭清による予後への影響については,糖尿病の既往症について考慮していたのみで,その余については格別意識をせず,Fについて,通常の食道癌手術の患者と較べて特に厳重な呼吸管理が必要であるとの認識を持っていなかったことが窺われること(証人I,同J),I医師は,同日午前8時30分にFが肺炎に罹患したとの疑いをもった後も,当時のFの状態が危険であるとの認識を持たず,気管内挿管,人工呼吸を中心とした管理等を開始しなかったこと及びFが肺炎に罹患したとの疑いを持った状態であるにもかかわらず,同日午後,Fの治療の中心となっていたI医師は出張し,J医師は手術中で,Fの全身状態の悪化があった場合に直ちに対応できない状態となっていた時間があったことに照らすと,被告病院の医師らが,Fの呼吸状態について十分な注意を払って,Fの全身状態を観察,考慮して,人工呼吸器の使用による危険性に配慮した結果,この使用をしないとの判断をしていたとは,到底認めることはできない。
(6) 原告らは,被告病院の医師らは,同月24日午前9時及び同日午後9時の時点で,Fに再挿管して人工呼吸開始を実施すべきであったと主張する。
しかし,同日午前9時は,長期間の予防的な機械呼吸を行うことは,圧障害等の合併症を生じさせる危険があることから,呼吸器の使用をできるだけ短期間に限定するという当時の被告病院の方針により,Fの呼吸状態が呼吸器を使用しなくても問題のない状態となったと判断されて,人工呼吸器を抜管した直後であり,この時点でFについてこれ以上に人工呼吸を継続すべきであったと結論できないこと及び開胸手術後に酸素分圧がある程度低下することは避けられず,人工呼吸から自発呼吸に切り替えた場合には,酸素分圧の低下は自然な経過であることが認められる(T鑑定)ことから,この時点で人工呼吸器の再使用を実施しなかったことに過失を認めることはできない。
また,同日午後9時の時点は,同日午前9時に85・3oHgあった酸素分圧が,同日午後8時45分には,70・5oHgとなり,酸素マスクに送る酸素の量を1分あたり3リットルから5リットルに増量した時点であるところ,酸素分圧値の低下は,肺機能に何らかの障害が生じている可能性ないしは,術後回復が順調でないことを示唆しているとみることができるが,一方,酸素分圧は開胸術後しばらくは低下の傾向をたどることは稀ではなく,この数値から,直ちに肺機能に何らかの障害が生じ,術後回復が順調でないと結論することはできないと認められる(T鑑定)から,この時点で人工呼吸器の再使用を実施しなかったことにも過失を認めることはできない。
(7) 前記認定事実及びT鑑定によれば,被告病院の医師たちが,遅くとも,同月26日午前0時30分,肺雑音が観察され,同日午前1時50分,心拍数が一過性に130ないし140となり,心房細動が認められたことを認識したときに,人工呼吸を再開し必要な積極的治療をしなかった経過が,Fのその後の呼吸不全状態を引き起こす原因になったこと,この時点でこれを行っていれば,Fのその後の呼吸不全状態を回避し得た蓋然性が高かったことが認められ,これを覆すに足りる証拠はない。
そして,証拠(甲23,乙1,証人I,U鑑定)によれば,Fの食道癌の浸潤は粘膜筋板(mm)に達しているものの,粘膜下層(sm)までは達しないものであると認められるところ,mm癌の5年生存率は100パーセントであるとされており,食道癌手術における術後呼吸管理は難しいとされるが,Fは,術前の呼吸機能検査の結果において,正常範囲内にあり,糖尿病等の合併症があるものの,手術には十分耐えられると判断されたことは前記認定のとおりであるから,前記時点での術後管理が適正になされれば,癌が再発するおそれはなく,完治した蓋然性が高いものと認められる。
(8) したがって,争点(2)について判断するまでもなく,被告には,Fの死亡による損害を賠償する責任がある。
2 争点(3)について
(1) 前記争いのない事実及び証拠(甲40ないし42,44,49,50の一ないし一三,乙10ないし12,原告B本人)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実を認めることができる。
ア G株式会社は,Fが,叔父から引き継いで経営していた「G」を,昭和44年10月,有限会社Gを設立して会社組織にしたころから,蟹製品等の海産物の加工,卸販売などを主たる業務とするようになり,昭和52年,株式会社に組織変更した会社である。Fは同社の代表取締役として,自ら,商品の買付け,加工,販売などの業務に従事していた。
イ Fは,昭和62年度5700万円,昭和63年度6140万円,平成元年度7140万円,平均6326万6666円の役員報酬を得ていた。
ウ G株式会社は,その株式のすべてを親族で所有する,いわゆる同族会社であり,株主に対して配当を行ったことはなかった。Fは,G株式会社の株式の8割以上を保有していた。
F死亡前,原告A及び同BはG株式会社の取締役に,同Cは監査役に就任しており,F死亡後,同Bが代表取締役に就任し,同D及び同Bの妻であるVが取締役に就任した。
エ G株式会社の昭和62年事業年度から平成11年事業年度までの総売上高及び営業利益額は,別紙のとおりである。
(2) 逸失利益
ア 上記認定のとおり,Fは,死亡当時,G株式会社の代表取締役として,会社運営の実権を掌握し,自ら,商品の買い付け,加工,販売等の業務に従事していたものであり,同社の営業については,Fの個人的手腕に依存していた部分が多かったことも容易に推認し得るところではあるが,同社は,いわゆる同族会社であり,株主に対する配当をしていなかったことから,Fが得ていた役員報酬には,実質的には創業者利益というべき配当部分が含まれていたと認められること,同社の売上げが,Fの死亡後,むしろ増加していることは上記認定のとおりであり,原告Bの必死の努力の成果及びバブル景気の影響を考慮してもなお,Fが得ていた役員報酬に利益配当等の実質をもつ労務対価性のない部分が含まれていることは明らかであるというべきである。そして,この部分については,Fの死亡により,Fの相続人である原告らに承継されるところから,Fの逸失利益の基礎とすることはできず,逸失利益の基礎となるのは,遺族に継承されないFの労働対価分だけである。G株式会社の規模,業務内容及び収益状況,Fの担当業務及び役員報酬額等(前掲証拠及び弁論の全趣旨)を総合勘案すると,Fの労務の対価としての実質を有する部分は,その役員報酬の60パーセントであると認めるのが相当である。
イ Fは,いわゆる同族会社であるG株式会社の代表取締役の地位にあり,その株式の8割以上を保有していたものであるから,平成2年における59歳男子平均余命年数(20・74年)のほぼ半分の期間である10年間は,代表取締役として現実に労務を提供して稼働することができた蓋然性が高いものと認められる。
原告らは,FのG株式会社における影響力からすると平均余命年数の全期間について稼働できたと主張するが,前記認定のとおりのFの既往症及び本件手術の影響等を考慮すると,ほぼ10年後,70歳を超えて,現実に労務を提供することが可能
であったとまでは認めることができない。
ウ したがって,Fは,死亡しなければ,69歳までの10年間稼働し,昭和62年度から平成元年度までの平均年収6326万6666円の役員報酬収入を得ることができたとみられるから,この60パーセントを逸失利益の基礎となる労働対価分とし,妻である原告AがG株式会社の取締役として収入を得ていることが窺われることに照らし,生活費控除を50パーセントとして,ライプニッツ式計算法により中間利息を控除して算定すると,逸失利益は,1億4655万7864円となる。
(計算式)
6326万6666円×0・6×(1−0・5)×7・7217=1億4655万7864円
エ 被告は,収入の基礎となる時点となる昭和63年から平成2年ころはバブル景気の時期であり,その後の景気後退による減収を考慮すべきであると主張するが,G株式会社の昭和62年事業年度から平成11年事業年度までの営業利益額は,別紙のとおりであり,確かに,平成9年事業年度以降のG株式会社の営業利益は,Fの収入の基礎とした昭和62年事業年度から平成元年事業年度までの営業利益より減少しているが,平成3年事業年度から平成8年事業年度までの同社の営業利益は逆にかなり増加しているから,Fの逸失利益の基礎収入を,昭和62年度から平成元年度までの平均年収6326万6666円として計算することは不合理とはいえず,被告のこの点に関する主張は採用できない。
(3) 慰謝料
被告の過失によりFが死亡したことによる慰謝料は,Fの診療経過その他,本件にあらわれた一切の事情を考慮すると,2600万円が相当である。
(4) 葬儀費用
原告Bは,Fの葬儀費用等合計662万8407円を支出したことが認められる(甲43の一ないし四)が,本件と相当因果関係にある葬儀費用としては,120万円が相当である。
(5) 弁護士費用
本件事案の内容,審理経過等を総合すると,弁護士費用としては,1750万円が相当である。
(6) 原告らの相続
以上のとおり,Fの損害額合計額は,1億9125万7864円であるところ,これを,原告Aが2分の1(9562万8932円),原告B,同C及び同Dがそれぞれ6分の1ずつ(各3187万6310円)相続したと認められる。
3 結論
以上の次第で,原告らの本訴請求は,原告Aに対し9562万8932円,同B,同C,同Dに対しそれぞれ3187万6310円及びこれらに対する原告らが被告に対して,債務不履行に基づく損害賠償の請求をしたことが記録上明らかである本件訴状送達の日の翌日からの遅延損害金の支払いを求める限度で理由があることになる。
よって,仮執行宣言を付するのは相当でないからこれを付さないこととして,主文のとおり判決する。
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